ねぷたの運行隊と囃子

 津軽地方に『大きいねぷたはあとから!』と、たとえ言葉があるように、昔から誰が定めたともなく弘前ねぷたは小さいものから中・大と順にそろって運行されたようである。

 現在もねぷたの大小にかかわらず型どおりの隊形に従って連行されているが、一般的な隊形を紹介すると、まず左右に消防組名の分団印の弓張り提灯を楊げて見物人を制しながら先頭をきり、次いで各々の町名を印した高張り提灯を従いて、先灯篭、錫杖持ち、それに町内のおもだちたる面々が続く。その後に一人持ちの扇灯篭や二〜三人担ぎのねぷたなどが、小さなものから順に並び、最後に大型ねぷたが連行される。

 大型ねぷたは左右に張られた引き綱に祭粋縄に向こう鉢巻の子供たちが重なり、胴間声の音頭に合わせて、かわいい声で「ヤーヤド-」と掛け声をはりあげて引いていく。
若者たちは大型ねぷたの周りに差し渡した丸太を支えてねぶたの進行を制動したり、運行する道路に垂れ下がった電線を竹竿で作った「さしまた」を持ってはねあげたり、
昔ながらの消火用のためにワラで作つた『ささら]を侍ってねぷたの周りを警護したりする。ねぶたの上でもまた、諸肌脱いで腹にさらしを巻いた数人の若者が立ち、電線をはねのけたり、かいくぐったりして進行のすべてを制御したりしている。この若者たちの動作は、勇壮なねぷた絵柄と同様にねぷたの花形として観衆の目を奪うのである。

 ねぷたの後には苗や太鼓、鈴(シャガラキ)の囃子方の一団が続いて、腹にこたえるような太鼓の響きと、哀調をしのばせる苗の音と、鈴の金属音が混然一体となって奏でられ、観衆の心の中に一層、余韻を残して次の町内へと去っていくのである。古老の人たちに言わせれば、現在の囃子は大太鼓も小太鼓も、全く同じように単調に聞こえるといわれる。
 昔は町内からねぷたが出ると、子供たちは小太鼓を持って何人も集まり、西洋音楽の大太鼓と小太鼓と同じように、大太鼓は『ドンコ、ドンコ、ドンコ、ドン…」と拍子をとり、小太鼓はその大太鼓の音の間をぬうように『ドンドコ、ドンコ、ドンドコ、ドン…」と小さくたたいた。それが2〜3個の大太鼓を20〜30個の小太鼓が囲み、一緒になって打ち鳴らすものだから、単調さは全く感じられなかったという。
そして全体の囃子も弘前ねぷたは、進行ーー休止ーー戻りの三節の囃子、それに七日目は七日目の囃子(お山参詣の登山囃子の帰りの囃子と同じ)と、四つの囃子からなっている。

 弘前ねぷたは出陣だとか、青森ねぶたは凱旋だとか言われるようだが、弘前ねぷたは一度、連行されると毎日、進行ーー休止ーー戻りと繰り返すのである。
おそらく、この区別は昭和30年の新聞記事に「ねぷた囃子のメロディ-について、音楽的には弘前が陰旋法(悲壮味な感じ)青森が陽旋法(明朗的な感じ)の特徴を表現しているように思われる」と、書かれたことから以後、あらゆる記事や宣伝に区別されて発表されたような感じがある。
                            (版画と文・工藤哲彦)


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