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弘前の有名人

陸羯南、堀江佐吉などの人が弘前の繁栄のために色々なことをした。その人 達のことを学ぼう。

陸 羯南

陸 羯南とは、日本の国民主義の政治評論家であり、日本新聞社長でもある。さらには、有名な正岡子規と仲がよかった。 羯南は、明治25年(1892年)、隣りに移り住んだ正岡子規を支援し、紙面を提供し、生活の面倒を最期まで見た。子規は「生涯の恩人」と泣いたという。 明治28年(1895年)、三国干渉に対し受け入れ論の東京日々新聞と論戦した。明治29年(1896年)、各社新聞同盟を結成し、新聞紙条例撤廃の運動を主導し、翌年、条例を緩和させた。 この年、樽井藤吉・中村太八郎らが創設した社会問題研究会の評議員に、明治31年(1898年)、創立された東亜同文会の幹事長になった。 明治33年(1900年)、近衛篤麿・富田鉄之助らと、日露開戦やむなしと議し、また、国民同盟会に相談役として参画した。 翌年、近衛に従い清国・韓国を視察した。近衛から日本新聞への資金援助を得た。 日本新聞社の社長でもある。

堀江佐吉

明治時代の青森県において洋風建築を多く手がけた大工棟梁である。青森県弘前市出身。 青森県で最初に洋風建築を手がけたと言われ、棟梁今常吉に技術を教わったとも伝えられている。

本多庸一

幕末の頃、同志菊池九郎らと国事に奔走した人物。明治 3年藩命で横浜に出て英学を修業。そこでキリスト教に入信し、 その後宗教家に留まらない幅広い活動を行いました。東奥義塾草創期における功労者でもあります。

棟方志功

大正13年に画家を志して上京し、貧苦に耐えながら精進し、木版画の道へ没入。 生の躍動する自由奔放な表現で独自の世界を確立し、国際版画大賞を受賞するなど、世界的版画家。 幼少から弘前ねぷたに憧れ、昭和46年に念願の大ねぷたを制作しました。

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