津軽為信

南部氏に属していたが21歳の時、反旗を翻し、仲間を追い落として自分の領土を確保した後、
武勇と謀略をもって17年かけて津軽地方と現青森市と現平内町に一大勢力を築き、
名を大浦為信から津軽為信に改めた。

しかし、家督争いを制して当主となった南部信直に対する敵対行為は、
豊臣秀吉の許可なく戦争禁止令に触れる行為であった為、
処罰対象者としてリストアップされてしまう。
危険を察知した津軽為信は、石田三成らを介して豊臣秀吉の有力家臣に賄賂を送ったり、
小田原攻めにいち早く参加して豊臣秀吉に臣従を約束し所領を安堵された。

※しかし太閤検地の際に津軽為信の所領の石高を半分にされてしまうのだった。
その後は、京都と津軽を往復して情報収集等の実務を務め、
京都に上った後、滞在中に病で58歳で死去した。
津軽為信の後は、三男の津軽信枚が継ぎ、津軽為信は弘前藩の祖となった。